慶大・清原正吾が語る“清原家の今”「母は涙ひとつ流さなかった」再会した父・和博の謝罪「ごめんな…」中高時代は離れた野球、当時の本音 photograph by Shigeki Yamamoto
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今春、慶應大の体育会野球部は東京六大学リーグの最終節で慶早戦に敗れた。試合後、明治神宮球場の外周で同窓生や一般のファンに囲まれていたのがリーグのベストナイン(一塁手)に輝いた清原正吾(4年、慶應高卒)だった。
神宮で目撃「父のTシャツ」を着た清原正吾
過去3年間でわずか1安打の記録しか残せていなかった正吾は、この春のリーグ戦で「4番・ファースト」の定位置を掴み、13試合に出場。52打席に立ち、14安打7打点の成績を残し、一躍“進路”にも注目が集まる存在となった。正吾は言う。
「これまでいろんなスポーツを経験し、それぞれの良いところを吸収して今の自分があると思います。野球を始めた頃は、清原和博の息子として常に見られることにプレッシャーはありました。ただ、大学生になってからは、注目していただくことをありがたいことだと思って、重圧と感じずに追い風に変えてプレーしていこうというマインドになりました」
帰りのバスに乗り込んでいく仲間が「KEIO」のスポーツウエアを着ているなか、サインに応じていた正吾だけは胸に「KIYO」「岸和田魂」と書かれた派手なTシャツ姿だった。毎試合、応援にかけつけていた父・和博氏(大阪府岸和田市出身)のTシャツを大事な早稲田大戦の日に着ているところに、現在の良好な父子関係が透けて見える。
父の愛称は「アパッチ」なぜ?
大物プロ野球選手の息子として生まれ、幼少期には「パパ」という言葉がうまく発音できず、正吾は「アパ、アパ」と口にしていた。そのため、清原家ではいつしか「アパッチ」が父の呼び名となっていた。
6歳だった2008年にはオリックスに所属していた父の引退試合にも足を運んだ。大歓声に包まれながら引退した父の背中を追うべく、慶應幼稚舎(小学校)の3年生の時に、軟式野球チームの「オール麻布」で野球を始めた。野球が大好きだった。夢はプロ野球選手だった。
「当時住んでいたマンションの部屋で、新聞紙をガムテープで丸めて、プラスチックのバットで打ったり、お台場の公園に行って父の自主トレに付き合ったりしたこともありました。父からは『センター返し』『リラックス』と基本的なことを教わりました」
「派手なリストバンド」の理由
思い返すと、昨夏の甲子園で優勝した慶應高のメンバーだった弟の勝児も帽子に「リラックス」「センター返し」「己を信じて」という父の言葉をマジックで書いていた。和博氏が常日頃から口にする教えなのだろう。さらに勝児は和博氏が現役時代に使っていたヘルメットの背番号部分を切り取り、ユニフォームに縫い付けて御守り代わりにしていた。正吾が続ける。
「僕も六大学のリーグ戦では、父が現役時代に使っていたリストバンドとグローブを使っています」
小学校も高学年になった頃に父の薬物騒動が起き、6年生だった2014年に両親が離婚。中学(慶應普通部)進学のタイミングで、野球とは距離を置いた。さらに、2016年2月には父が覚醒剤取締法違反で逮捕されてしまう。
「母は一度も涙を見せなかった」
話題が核心に迫ろうというとき、正吾のほうから父に対する当時の感情を、サラリと言葉にした。
「一度は、父親のことが嫌いになりました。あの頃は野球からも目を背けたくなってしまった」
思春期を迎えていた正吾はとても平静を保てる状況ではなかったはずだ。
「そうですね。家族である僕自身も驚きましたし、騒動の時は家から出られない状況が続きましたから。でも、学校には一日も休まず通いました。それができたのは、間違いなく通っていた学校が慶應だったからだと思います。慶應の学生は、中学生でもどこか品があって、状況を理解して大人のような気遣いをしてくれる。だからこそ、僕も普通の学生生活を送れた。
自宅ではお母さん(モデルの亜希さん、55歳)が一番大変だったはずなのに、僕たちの前では涙ひとつ流さず、寂しい顔も見せなかった。長男として、弟に『お母さんには迷惑をかけないようにしよう』と伝えていました」
中学はバレー、高校はアメフト
大好きだった野球を離れてからというもの、中学ではバレーボール部、高校ではアメリカンフットボール部と、異なる競技に汗を流した。
「子供の頃からどんなスポーツもそれなりにはできましたし、学校のスポーツテストは常に1位でした。バレーボール部ではエースでしたし、アメリカンフットボール部ではタイトエンドという攻撃のポジションを任されていました」
アメフトでは神奈川県選抜にも選ばれ、出場した2大会でMVPを獲得した。そんな正吾に対し、大学のアメフト部は、彼の入部を心待ちにし、正吾を中心としたスペシャルプレーまで用意していたほどだった。
正吾が他のスポーツに励んでいた時期、愛憎相半ばする父とはしばらく交流を避けていた。しかし、離れた父子の関係を修復するきっかけとなったのが、野球だった。
「僕が高校生の頃、中学生だった弟がバッティングに悩んでいて、相談を受けたんです。だけど、野球から離れていた自分はなかなか力になれなかった。いろいろ考えた結果、僕なんかより『アパッチが一番のコーチじゃない?』と弟に言いました」
父の一言「ごめんな…」野球を再開するまで
父と勝児、そしてサポートとして正吾も参加した初めてのトレーニングの日、和博氏はふたりの息子にこう告げた。
「ごめんな」
正吾が父の心境をこう慮った。
「僕が野球から離れたことについて、父とはあんまり話したことはなかった。父の中には負い目があり、責任を感じていたのかもしれません」
2021年に大学進学するとき、薬物依存から立ち直ろうとし、糖尿病とも闘う父の少しでも励みになれることはないか。正吾はそう自問自答した。かつて父の背中を追っていた正吾は、今度は父親の背中を押してあげたいと思うようになった。
「大学4年間は、最後の学生生活となる。まずは今まで育ててくれた両親に恩返ししたいというのが、自分の心の第一優先としてありました。アメフトでは正直、高校の部活としては行けるところまで行ったし、やりきった想いも強かった。社会復帰をし始めて頑張っている父の人生を活気づける何かをしたいなと考えた時……」
答えは野球を再開するということだった。正吾は白球と木製のバットを手に取った。
〈つづく〉
文=柳川悠二
photograph by Shigeki Yamamoto
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